使いの者の身の上頼上候 義豊

木曜時代劇「新選組!!土方歳三最期の一日」後編を見ました。

正月時代劇の時とはまた違う新たな印象を受けている自分に驚きながら、思いはやはり厳しい時代を命懸けで駆け抜けていった人たちに自然と向かってゆきます。


タイトルは、ドラマのラストで平原を駆けて行く少年隊士市村鉄之助に土方さんが持たせた故郷の家族への短い手紙です。
義豊というのは本名ですが、万一官軍に見付かった時に言い抜けられるよう土方歳三と書かなかったのでしょうか。
しかも市村のことを頼むとただ一言だけ。

史実では、鉄之助が託された物は写真とこの手紙の他に歳三の髪と辞世の和歌もあったとされています。
辞世は『両雄逸事』にこう記されているそうです。(原文は万葉仮名)
「よしや身は 蝦夷の島辺に朽るとも 魂は東の君やまもらむ」
どちらも歳三の手による物は残っていないので真実は定かではありませんが、代々縁戚の家に市村の来訪秘話として伝えられているのだそうです。


遺品を託された鉄之助が官軍の目を掻い潜り、歳三の故郷日野の佐藤家に辿り着くまでに3カ月もの月日を要しています。
これはその頃の旧幕府軍に対する官軍の無残な仕打ちのせいだったのでしょう。
追っ手から逃れる為に乞食のようなみすぼらしい姿に身をやつし、遺志を全うした16歳の命。
救おうとした歳三の優しい気持ちが感じられるようですが、鉄之助の果たした役割もまた、今も残る写真とともに大きかったのですね。

そして総督榎本武揚や歳三直属の上司だった大鳥圭介など、数年間の投獄ののち赦免され(強硬に死刑を望む長州をおさえ参謀黒田清隆や西郷隆盛、福沢諭吉などの助命活動が功を奏したと言われている)、新政府に出仕し活躍した幹部もいる一方で、旧幕府軍への残党狩りは苛烈を極め、戊辰・箱館戦争の戦没者たちは賊軍の汚名を着せられたまま、明治7年に布告が出されるまで墓を建てることはおろか慰霊も許されませんでした。

新選組にいたっては、ごく最近まで情け容赦のない殺人集団とされ、戦前の映画では碌な描かれ方をされていなかったようです。
それを覆したのが司馬遼太郎さんの小説「燃えよ剣」「新選組血風録」
昭和30年代後半にこの作品が発表されて人気を博し、ドラマや映画も作られ新選組のイメージも変化、土方さんはもちろんそれぞれの隊士たちもひとりの人間としてその生き方が認められるようになったようです。

土方家では子孫の方が今も遺品を大切に保管し一般公開もして下さっていますが、明治初期の頃、新選組隊士の縁者の方たちは辛い境遇におられたのではないでしょうか。
土方家の菩提寺に二人の英雄を称える「殉節両雄の碑」が建てられたのは明治21年。
一本木関門で土方さんが亡くなったのは明治2年。
今から130年ちょっと前でしかないんですね。
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by aquadrops | 2007-12-22 20:12 | Monologue | Comments(0)